豊臣秀吉も一目置いた中世の名城「城山城」

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宙の森から程近い場所にあり、散策にぴったりな森です。
ぜひお越しの際には歴史に思いを馳せながら、散策してみてください。

城山城は宙の森ホテル花郷里の裏山に位置し、現在は小代ふれあい歴史公園として整備されています。香美町より指定管理としてホテルが受託し園内の管理をしています。元々ホテルの立地(段の平)は城山城のお殿様のお屋敷跡。戦いの時に籠ったのが裏山の城山城。ホテル眼下には城下町の風情を今でも感じることができます。現在ホテルとして城跡を管理させていただいているのも、時代と時間を超えて、なんだか城のご縁を感じています。
 
城山城とは
小代谷を流れる矢田川と久須部川に挟まれた標高396mの山上にあります。城域は東西510m、南北500mと大きな山城でした。放射状連郭式という攻めにくい山城で、中世は小代・村岡地域(七美庄)を治めた中心地であったようです。
お城は歴史書によると、古くは南北朝の時代から存在し、朝倉氏(のちの越前朝倉氏)、八木氏(山名氏四天王)、田公氏(山名豊国の要人)と城主が変わっていますが、どの方も名門日下部氏の一族で、山名氏に仕官されていました。最後の城主は田公綱典(山名豊国の執事)です。綱典のお孫さんが、有名な江戸前期の禅僧沢庵和尚(沢庵漬を作った人)だという説もあります。
 

 

城山城と小代一揆

 戦国末期、羽柴秀長(秀吉の弟)が但馬に攻めてきました。天空の城「竹田城」が落城しその一族も小代に逃げてきて、山名氏としての但馬の最後の城となりました。秀長の家臣で大屋に拠点を作っていた藤堂高虎(後の伊賀上野35万石の大名)がまだ25・6歳の頃、城山城攻めを任されます。天正5年(1577年)10月、第一次城山城の攻防がはじまりました。城主田公綱典は、稲葉(鳥取)の山名氏を頼って早々に因幡へ逃亡。主だった侍は城主に従って因幡へ移動します。残された地侍、太田垣信喬、広井典胤、小代大膳ら年配の侍43名が立て籠りました。藤堂軍は残された年寄り侍ばかりと侮って120騎だけで攻めに来ます。城中より大木や大石を落として交戦し、急峻な城の斜面に藤堂勢は苦戦します。そこへ栃谷(浜坂)の50騎の援軍が後ろから攻撃したため、藤堂軍は総崩れ、藤堂高虎一人になって大屋へ逃げていきました。小代勢は大屋や村岡でしばらくゲリラ戦を展開したそうです。(後に小代一揆という)
天正9年(1581年)6月に、因幡鳥取城攻めに秀吉本隊が但馬に入った時、秀吉が直接小代に入り、「勇敢な小代勢と和議を結びたい。直接褒美を渡したいから全員来て欲しい。」という計略を図り、村岡区高須に小代勢全員が正装丸腰で集まったところを一網打尽にされ、磔獄門となって小代一揆は終焉します。秀吉は7月1日~9日の間、小代に滞在したことが歴史書に記録されています。
 
今ここに
 主を失った城山城はそのまま荒廃し、現代までひっそりと山の中に残されてきました。そのおかげで小曲輪群や堀切などが中世のまま保存され、山城の特徴を・形状を観察することができます。
今は木立に囲まれ、一日いると朝日から夕陽まで見ることができるすてきな場所です。心静かに想いを重ね、自然と共に散策いただければ幸いです。
 
文責 宙の森 田中誉人
 
 

 
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